2016年3月11日金曜日

「せやみ」の意味がわかった

母は郷里山形県村山市の小さな村で生まれ、そこで育ち、結婚し、そして今静かな老後を送っている。
そんな母の言葉はテレビやラジオの影響を多少受けてはいるが、生粋のズーズー弁である。私というバイリンガルな通訳を介しないと県外の人びとにはほとんど理解できないのである。もちろん私の家族も、ほとんど彼女のいわんとすることを理解できないでいる。だから各自曖昧な笑顔を浮かべて聞き流したりしているのであります。

私は高校を卒業してまもなく、石をもて村を追われた人間である。(ここはかなり嘘が入ってるけど流れからしてこのほうがしっくりくるのだ)その私が飛んで来る石を避けながら首をすくめて暮らしていたころ、母は私の怠惰な生活ぶりを指して「せやみだなー」と良く口にしていたことを思い出した。たぶん怠け者を指しての蔑みの言葉であろうぐらいのことは理解できたが、深くその意味を知ろうなどとは思わず、そのまま聞き流しており、郷里を背にして都会に逃れると同時にそのふるさともその言葉も恩讐の彼方に忘れ去っていったのでありました。

最近はやたらセンテンスが長くなっていることに気がつくが、ま、これでいいのだ。

さて時は一転して現代にワープする。病み上がりのリハビリのひとつとして、生活の中に家事労働を積極的に取り入れるようにして、もう半年ぐらいになるだろうか。そしてその家事労働をやり始めた頃ににわかに出現してきた言葉が「せやみ」である。
食器洗いを習慣づけようと奮闘している時に、もじどおりに背中がイタイのです。腰のちょっと上の左右の背筋が痛むのです。
机にしがみつくだけの生活をウン十年も続けてきた。その結果立っていることが不得意になってしまっているのです。
洗い物はたんに食器洗っただけでは終了しない。それをきれいに拭きとり、食器棚の所定の位置にきっちりと収納して終わるのです。ま、このあたりはどうでもいいのですが。
全部の食器を洗うまで立っていられないのであります。それこそ背が病んでしまって、洗剤で洗ったら一休み、全部をすすいで一休み、布巾で水滴を拭きとって一休み、食器棚に収めて、「ふーっ、ようやく終わった」とタバコに火を点けて本格的な休憩といった具合であります。

方言を馬鹿にしてはいけないな、それなりの意味があるのだなとこの時しみじみ感じ入ったわけであります。
最近はさすがに半年も続けてきた結果、食器洗いでのインターバルは少なくなってきました。ただまだ一挙にというわけにはいかないようであります。

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